4/12/2009

いくつかの不満

どうしてもこれだけは許容できない点が私には存在します。
それは、とても主観的な問題で一般化できず、また特定の手順によって確認できるものでもないのです。
  1. 浪費ばかりをし続ける人
  2. 努力しない人
  3. 口だけの人
  4. 今だけしかない人

これらはただこのように並べられていると、どれも例外が存在しています。1.に関しても、資産をもってそれを食い潰している人は、まぁ許容できますが、2.該当するならば許容しがたいです。しかし、私は努力をむやみに礼賛する気もさらさらないのです。努力という言葉はその言葉にすでに善性を表す意味合いが含まれていますが、個人的にはこの努力というのは覚悟をもった労働であり、これによって如何なる結果が導かれても自己への内省を生むようなものをさします。そうでないと、努力であれば全てにおいて許されることになってしまいます。3.の口だけの人は結局は覚悟がないという点で2.と複合的に許しがたい行動をとることが多いので、いやです。4.の今のみに生きているというのも、確かに極限状態で事象の大まかな見通しすら立たないのであれば、それについては問えませんが、私が問題にしたい場合は十分予見可能な範囲のことすらも考慮に入れない人です。これを仮に確かめるならば、説明をしてもらえばいいのです。なぜそうするのか。

大抵の許容しがたさの根本には、自己への無理解であると思います。自己への理解、自己の行動原理の確度。内向きの検討であるけれど、それの題目は将来や外の事象に向けられていることをしっかりしている人を私は評価していますし、そのように私自身なるべきであると思っています。これらを多くなしている人のことは私は尊敬しますし、より少ない人でもこの志向性を持っている人へは敬意を払います。これらの志向性が欠如している人こそ、私がもっとも嫌うものであり、度し難いと思います。

もっとも簡単にたとえると、寄生虫はすべからく排除したい。

童話でたとえるなら、「アリとキリギリス」でのキリギリスは厳冬の雪の中で、アリに頼るようなら死すべきであり、その中でもキリギリスとして生き続けようと覚悟を決めるならば、わずかに助けるべきであろう、ということである。

考えて生きていくことをあきらめた人は、積極的に排除したいです。考えた末に死にたいと願う人にはわずかな憐憫を覚えますが、私は8割もったいないと思います。その覚悟をもって、ことにあたれば本当に困難なことなどないはずですから。死は根本的な無へいたった状態と考えるから、死への志向は生の逆であり、落下速度に近いエネルギーだと思うのです。そのエネルギーで問題を突破できるなら生きれば良いし、突破できなくても本来の覚悟へは至れるから、ただ死ぬことを選ぶことは、本当にもったいないと思う。

「必要とされていないから死ぬ」という人は、考え違いを起こしていると思っています。問題の局地は、他人が先に発生するのか、自己が発生するのが先か、です。「社会的に必要とされていないから死ぬ」という意味で死ぬならば、その前提とされている社会を変えることを考えられないことが哀れみを誘う。そして必要とされるようなことをしてこなかった、あるいはしていないのに、それを望むならそれはないものねだりであり、赤子である。してきて、今はなくなってしまったのなら、次の必要とされることをすればいい。「他人に必要とされる自分」でしか自分を保てないなら、それを満たすようにするか、そもそもの「他人に必要とされる自分」は人格的に壊して、別の人格を作り直すしかない。これを「死」とみられるならば、それでいい。なにもせっかく生きようとしている「身体」まで殺してしまうことはない。ハード的な「身体」はまだ使えるのだから、ソフト的な「人格」を再インストールするか、リカバリするしかない。ソフトの複製が確立されていないので、論理的に身体は根本的な自己といえるかもしれない。これは経年劣化や外的衝撃で破壊されてしまうまで使えばいい。

そして、やはりいいたいのは、どう行きたいのかを明確に自分にだけは説明できるようにしておいてほしい。そうでないと見苦しいし、救いようがない。芯になるものがないとざるにもかからない。本当の意味ですくいようがないw

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