5/31/2009

楽観的な人工知能論

本当に意味での人間の知能と同じ仕組みを持ち、同じように駆動する人工知能は限りなく不可能である。

前提として統一体としての人間は脳のみではない。身体を持っている。これを無視しては意味がない。
だが、これも切り詰めていくと、人間の身体を機械で置き換えていったときにどうなのか。脳のみが生体でそれ以外が機械で構築された人間は、本当に人間になるのか。仮にそうであるなら、器官としての脳の動作を再現する機械が出来れば、確かに身体の面はそろう。
では、次に問うのは、生死だ。機関としての人間が終結するのはなぜだ。脳という機関のどこに致命的なダメージが起きると再生不可能なのか。人間をそのスイッチをON/OFFすれば、駆動を制御できるとする。このときにまだ残るのは、結局私たちに思考と呼ばれるものは何であるのかということである。
それは発火現象なのか?電気信号の錯綜なのか?はたまた思考というこの世界とは別の原理で成り立つなにかがあるのか?もっとこれは言える。物理現象とそれに付随して人間に知覚現象との間には明白な関係性はない。ただ経験的に励起の関係性があるだけである。そうでなければ、いかにして意識の書き換えが可能になるのか?
人工知能論は同時に哲学的な問いかけに対する実証の側面を含んでいる。だから限りなく解決不可能なように見える。哲学がいまだに学問として成立していることから考えて、なかなかに大変であるとしかいえない。

それでも世界はいまだにこの問題に関して楽観的である。それは、すでにいくつかの進展のように思われることをなしていると認識されているからである。だが、それは誤謬だ。振る舞いとしてはだいぶ人間を思わせる駆動が出来ている。それは認められる。ただそれはあくまで人間のような振る舞いを機械が実装しているからだ。実装はその振る舞いとは分離している。
OOPの考え方やCOMの考え方を思い出してほしい。これらのスタイルはインターフェイスとその実装を分離している。ただの結合の関係しかない。実装が隠蔽されていることによって、共通の振る舞いで一連の動作を考案できる。ただ入力に対しての最終的な結果が希望に合致していることが重要なのである。
この点をよくよく考えてほしい。部分的であるならば、犬も人間と同じである。食って、寝て、排泄をする。まったく同じだ。人のように見える。ここでは視点の持ち方が、インターフェイスの捉え方が上記のようなものであるからだ。期待するインターフェイスへの応答性こそが振る舞いができる、できないの判定基準でしかない。なにも知能はいらない。すべてプログラム可能だ。
だが、全てプログラム可能であるが、それが人間と同じ実装をしているのかは謎である。人間もアーキテクチャとしては、すべてに分解して解析済みであるが、その実装系は隠蔽されているが故に脳科学なるものや、哲学があるんだ。
すべての応答関係を洗い出して、それをプログラムしたとしても、それでもやはり同一かどうかは、インターフェイスへの合致の度合いでしか測れない。

・アーキテクチャの相違
・応答関係のテーブルの不十分さ
・アーキテクチャの相違を隠して、仮想的にするだけの知識がない。

一般的な意味での、人工知能は可能だろう。可能だ。ただどれだけ時間がかかるのかは不明だ。特に認識に関するものは人間の認識機構を全て洗い出すことと、またアーキテクチャの違いを乗り越えられるだけのブレイクスルーが必要である。
いうなれば、有限であるが限りない数字を数えきるという作業の感覚しか沸かない。

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