5/29/2009

便利さと習熟曲線

便利であるけれども、習熟曲線で実際の利の部分が出てくるまでの機関が長いものは、得てして不恰好なものといわれる。たしかに線形的に利がでてくるものならば、すばらしいが、大抵そういったものは上限が低い。
InterfaceやOOP、COMなどのプログラミングテクノロジー?っていう奴は一度その型にはまらないと利を得られない。

Interfaceの統一は非常に魅力的だ。これによって一意にロジックを組むことが出来ることはすばらしい。だが、このやり方に慣れていない人からすれば、これは非常に不恰好に見える。なにより手順しか記述されていないので、豊富なドキュメントで補わないと、そのロジックを理解することが難しくなる。だが共通の基盤に立つものにとっては豊富なドキュメントはごみに等しい。
教育でいうと、共通の基盤を知っていることを「教養のある」という形容をする。「教養のある」プログラマというのは、言葉にするのはたやすいがこの言葉に真に該当するのは難しい。プログラマが相手にしている領野はとても広く、とても更新が激しい。その中で「教養がある」という形容に足る存在は、ほとんどいないだろう。
これを踏まえた上で今日の社員教育や、大学での情報系の授業を考えてほしい。多くは語らないが、賽の河原にいる気分だろう。何をしたいのか?何を基盤としたいのか?そもそも大学でやることなど、すでに知っているか、それはプログラミング雑学だ。2000円の本に書かれていることをなぜ日給ウン万円の人がわざわざ講釈たれなければならない?そもそも規格文書あるいは仕様書以上の規則を教えてくれないならば、それは2000円以下の価値しかない。なにより2000円の本の内容を覚えたところで、すぐに使えるわけがない。それを使う術を教えないから、教えられないから。ついでに言うと教えられるなら仕事しているわ、ヴォケ。
でも時々そういうことを越えて、すごい人もいる。だけど学生には理解できない。「教養がない」から。
教養課程がどうのこうのじゃなくて、この専門化された社会で一般教養は語学と勉強方法論以外にない。真に一般足りえないから。もっとも社会的な制約下では、国史は一般教養足りえるが、あくまで制約下でしかない。

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