5/27/2009

あたりまえの予言

時間がたてば、その先進的で先見性の高い予言も陳腐化して見える。

これをさかのぼって評価して喜んだりするのもいいが、その予言が当たり前のこととして認識されていることにちゃんと気づくことが大事だ。
ドラッガーの著書(たぶん原著の正確な翻訳ではない)を読んでいる。この人が予言したことを私は当然のことであると思った。またこのことにきちんと留意しようと思った。つまりこの予言の時代は到来しているし、これから先がある。と私は考えた。しかし、必ずしもこの予言どおりの世界になるとは思わない。たぶんこれを読んで留意している層とそうでない層で分離し、その中庸が取られると思う。でも支配的な原理を知っているのと知らないのでは振る舞いの「滑らかさ」が違う。

予言の当たり前のことに照らし合わせて考えると、現在の教育の機能は非常に稚拙である、いや的外れである。ただろくでもない「教授」という非生産者を生かしていくだけのポンコツ機関になりさがっている。詰まった便器みたいなものが今の大学だ。

大学生のもつジレンマもよく分かる。つまり「この学習が社会に出ても役に立たない」というジレンマだ。今の私からすれば、視点を間違えたジレンマにしか見えない。もう高校生の自分でも気づいていたが、重要なのは
・「学ぶという行為それ自体とその構造」
・「学習した知識によって何が変わるのか」
・「大勢とはなるべく競争しない」
ということへの感覚を養うことが、現状の教育制度の中で学生たちが効率よく振舞うために出来ることである。学習した知識など、それこそ君と肩を並べて学習している人々全てが知っているのだ。そんなものがいまどき何の役に立つのか?語られて広く広まったものには、もはやそれ自体では力がない。秘匿されているもののみがポテンシャルをもっている。
まぁこの原則みたいなものは、別に一度身につけば、それをやめる必要性もない。これこそが優れた企業家やビジネスマンに求められることだ。コミュニケーション云々は、大前提であるし、これがなくても上記の原則を生かせばいくらでもカバーできる。声高に叫んでいることの中に有益な情報なんて一つもない。それには何の特別な点もないから。

まぁ本来の大人に要求されるべきものである、「その先の社会でどのように生きていき、どのように社会に関わっていくのか」を考えるということを「大人」は教えない。また教えられない。彼らは結局なにも学べていない。手段と目的、金銭を稼ぐことと物を売ることの関係性が逆転している状態を是としているからだ。これに気づかないから教えられない。知っている人は教えない。当たり前だから。
そしてもしも教えるときにはその人を利用するときだ。傀儡にするにはちょうどいいから。だが悲観することはない、君は求められている!

この流れで行くと、学生の各個人の信念の持ち方は不十分に見える。
だが少し救いがある。人という総体はそれほど高尚には出来ていない。止むに止まれずうまく立ち回るという方向性を持ちうるかもしれないが基本的には意志的に行動などしない。ただ環境が許すことによって、高度な教育を受けられた人のうちの、さらに何割かの人々が、ただ自分たちがうまく生きていけるようにその考えを利用し、そうでない人を使用する。

だけど忘れてはいけない。いい組織にはちゃんと上と下がある。みんな下ではうまく行かないし、みんな上ではそもそも立ち行かない。過度に人を利用する人は結局は身を滅ぼす。だから唯一この上下の関係性の健全性が社会での持続的な発展を促して、そのために自浄作用をもつ。だからどちらがえらいということはない。ただ命令系統に優先順位があるだけだ。

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