12/19/2009

読書と筋トレ

どうもJudaです。

読書と筋トレを私はほとんど同列の行為だと時々認識します。
どちらも自己を研鑽する目的があります。読書も本によって内容に強度がありますし、難しい本はやはりベンチプレス200kgのような困難さがあります。しかし読書や筋トレを好む人は、その困難さを楽しみに変えますし、それが嫌いな人は、その困難さが嫌いなのです。運動を頑張る人が勉強を頑張れないというのは、結局はこの困難さがあるということを知らずにいた人なのだろうなぁと思います。私は、個人的にその感覚を養うことができないことはもったいないと思います。ただなにかに頑張るにしても、良き指導者がほしいのは変わりませんが。

さらに読書と筋トレから同様の枠組みを取り出すならば、それは「不自然な行為を自然な行為に変えていくこと」ということでしょうか?読書は通常の人間の営みからすると不自然です。この場合の不自然は意図をもって行動を行わなければならない。ということです。同様に通常の人間の営みからすると筋トレは不自然です。明確な意志や意図をもって行わなければ、それを行うことはないでしょう。

私はこの意図や意志というものを高く評価しています。それは哲学科という日本では非常に特異な分野を専攻していたことに起因するのですが、国外ではこの意図や意志というものはごくごく一般的な教養ある人の中では当たり前であり、意思決定においてこれがないとまっとうではないです。

日本で、ある決定について、「それはどうしてですか?」という根拠を訊くことは野暮ということになっています。それはほぼ均質な文化的な基盤があるという前提が確立しているからですが、現在の日本において個々人の文化的な基盤がほぼ確定的に共通であると信じる根拠に乏しいと思います。ゆとりと称される存在は明らかに文化的な基盤が共通であるとは考えられない人への別称です。このカテゴリにはいる存在に対して、ただ闇雲に「若いヤツは」的な話をするのは、愚かしさの上塗りです。彼らも確かに生きてこの社会に存在しているのですから、その「貧弱」にみえる文化基盤でも問題はないのです。

話は戻りますが、意志や意図をもって何かを行うことは悪いことではないですし、それは非常に強い決定であると考えます。意志や意図はしばしば「悪いこと」をしたときには訊かれます。「どうしてそんなことをしたんだ!」など、見に覚えがあると思いますが、私からすればその理由が答えられるならば、その人は明確な意図をもって行っているので、容易く答えられますが、ただなんとなく行ってしまったというときに失敗する事は多いと思います。

つまり通常時は意志や意図を求められることがないのに、失敗した時だけ理由を訊かれることは、個人的に気分最悪です。意思決定をして、行動を起こす前でなく、その結果のみに対して詰問を行う姿勢は、非常に合理的でシステム的にも無駄がないのですが、それが常態化したときに十分な結果に対する責任をもつという姿勢が養えるのかは分かりません。それに失敗は失敗として既にマイナスでしかなくて、詰問の回答によってはさらにマイナスが膨らむとすれば、誰がまっとうに答えることができるようになりましょうか?

行動の意図や目的を問うことも必要ですし、成功、失敗にかかわらず、結果に対しても常に意見を求めることがこれからの在り方として必要ではないでしょうかねぇ。

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