2/21/2009

法意識とネット上での人格形成

法の意識というものは、人間の発達段階で思春期を過ぎたあたりから生まれるものらしい。
インターネット上で中学生ぐらいの質問者が違法なレベルに抵触しているテーマを提出するということはこの観点からすれば、一定の留保を認めることができるかもしれない。しかしこれらをたしなめることなく質問に対して回答してしまうことは問題だと思う。そしてそれをたしなめる自身にも同じことが遵守されなければならないはず。
また日本で法といってもそれは守るべきものではなくて、引っかからないようにするものであるという意識がある。そうでなければ、違法か非違法かどうかを気にするわけがない。見つかる、見つからずに関わらず発生すべきである。しかしこれはあくまでキリスト教的な「ユビキタスな神の視線」ということが前提である。日本は一応これではなく「恥」というものを考え方を使っていた。現在これが十分な機能を果たしているとは思えないが。いまどきは恥をかかされた自分を悔いるのでなく、恥をかかせた相手を名誉毀損や侮辱で訴えるのだろう。結局自らのうちから恥をなくし、神の視線はなく、ただ他者の視線から隠匿されるならばそれでいいのだ。
インターネットという現実世界とは違う振る舞いを求められる世界で現実世界と同じように振舞うなら、ただ他者の視線から隠匿されることを望むものたちは、非常に活動しやすいだろう。発言者の身分は自ら明らかにしない限り隠匿され、ほぼ他者から隠匿されている。ネット上では強制力はなく、ただ一個人として自らの倫理観や道徳観をもって振舞うのでなければ、自らの振る舞いを律するものがない。実際は18歳未満禁止のポルノサイトに青少年がいくらでもアクセスできるし、それを行っている行為者を特定する手段が存在しないことからも、これらの違法行為を抑止するのは本人以外にない。
だからといって、ネット上でもこそこそと違法な話をすればいいというわけではない。そこで発言されたことはネットを介して閲覧できる以上は技術をもった人ならば誰でも到達できることを意味している。これは先ほどの隠匿とは逆の公開である。存在は隠匿されていても、そこで行為することを通じて、次第にネット上に存在が確立されていく。このようなあり方を「新たな誕生」のように捉えることもできるだろう。
結論として言いたいのは、ネット上でも人格が形成されていく可能性があるから、あとから後悔したくないのなら、自らの発言には生活世界であるとき以上の厳密さと責任が必要とされることだ。
まぁ後悔などと無縁であるような人はこの限りでないので、何を説いてもそれは無駄というものだ。これの人格の話もただ便宜上これを採用するだけで、これは真実ではない。ただこういう風に組み合わせて考えることもできるというだけだ。VR内で人格を形成することはたぶん可能だろうけど、それはVRのみではなく生活世界にも当然関係するから、まぁVRでの人格はある意味その人の一面という意味合いが伝わればいいなぁ。

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