10/19/2009

コンテキスト

どうもJudaです。
今日は、「言語」という話を備忘録。
数学と音楽は、日常言語とは違う「言語」を持っていると思う。この場合の「言語」は一定の規約に準じる他者との相互理解のための意味コンテナ。数学の証明は、その作法を知らない者にとって、理解不能だ。音楽もたしなむ人にとっては、特定の旋律や進行がどういう意味合いを持つのかということを理解することもできるだろう。もっと一般化してしまえば、日常の会話でも使われている「言語」は特定の規約を知らなくては理解できないものになるだろう。
このときに、もっとも基礎となる「言語」というものは、もっともその「言語」を理解できる者が最大となるときの「言語」。使用効率がもっともよい者が基礎となるのだろう。これが標準となる。
標準をもとにいくつかの派生言語や、派生先での相互の翻訳がある。このときに、共通の根となるもっとも標準な「言語」を知れば、全てを知ることになると単純に考えることもできる。しかし派生が発生するという現象を鑑みれば、特定の事象を細分化し、他者と共有するために派生が行われていることが分かる。このときに、共通の根というのは非常に素朴なものだけを扱い、あまりにも漠然とし細分化されていないものとなる。この場合の派生関係は差異を進めることによって、もはや共通の根から派生したものとの関係性は薄くなる。これに対して、翻訳を行って、共通の変換規約を作り出しても、その変換は部分的にはうまくいくだろうが、一定以上の細分化が進んでいる場合には、翻訳不可能な局面が現れるはずである。それは、そもそもの派生が発生する契機に、コンセプトの相違に近いものである。
この変換によるロスは、「言語」固有の特質だ。またこのロスを語ることは、それが変換できないという変換可能であることを否定することによってしか、一方の「言語」では、表現できないのではない。
このときに、真に変換された無かった「言語」を理解するには、まったく別のものとして、新規に「言語」を習得する必要性がある。このことを自覚できずに、ロスの存在に気づくと、もどかしさを感じる。
この「言語」を意識、精神に置き換えたときにいかにしてこのロスを克服していくのだろうか。考えられる解は、共通の根まで戻り、再度双方の言語に双方の語を交換して登録を行うことだろう。ただ習得は非常に非連続的なものになる。ある意味ではコンセプトを破壊する。

仮に、これをクラスに置き換えた場合には、特にC++において、継承関係が完成されてるものに対して、新規に継承関係を動的にあるいはソースコードに直接記述することなしに追加していくことはできない。この流れでみたときに、Objective-Cの考え方はとても拡張性に富んでいて、洗練されたObjectOrientiedな言語設計である。もっともC++はオブジェクト指向でのプログラミングを許容する設計であり、複数のコンセプトが混在してる。だからオブジェクト指向への適応度の違いは、なぜC++とObjective-Cが存在しているのかということを再認識させる。このような違いに無自覚でいることは、その「言語」の本質を見失うことである。またその「言語」を使いこなしているのかという観点から言うと否と言わざるをえない。

ただし、この論法を人間に拡大してほしくはない。理由があって派生しているというのは、人工的なラベリングでの話だ。個々人の個別な身体の所有に関しては、その理由を提供するものではない。人間とクローンでは話は別だが、あくまでラベリングされた場合のみだ。

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