5/11/2009

ネオリベらしい

どうやら私の経済の考え方はネオリベに近いようだ。
といってもその思想の始祖の本を読んだわけではない。
たださまざま言説を少しなぞってみた感じでは、その考え方が割りと好きである。

でもこの考え方の怖さはたぶん無自覚でいられないことだと思う。この考えは多くの大前提(現在の前提とは異なる)があるので、前提が共有されていない状況では理解しにくいという問題もある。これは議論のときに問題なるけど、それはどれも同じ。議論中には誰もそれぞれの土俵を捨てることができないことが実は哀れ。
日々に忙殺、あるいは無気力ゆえに考えることをやめて生きることをよしとするならば、ネオリベで満たされた社会では欲望を抱くことは難しい。自らを売り込むことが出来ない人は、生きてはいけるが、それ相応の状況で生きていくことを理解しなくてはならない。自らと向き合い、他者と向き合うことから逃れられない社会にネオリベっぽい雰囲気がある。

このあり方はとても理性的である。哲学的といってもいいかもしれない。自らの行為に責任を持つが故に、失敗したときの負債は大きい。故にセーフティネットを用意したほうがよい。また再挑戦を可能にしなくてはならない。でも現実にはないから、ネオリベの人は自らセーフネットを確保しておかなくてはならない。人生を難しくしている原因は、セーフティネットのなさと再挑戦の困難さである。要求を満たしているものはゲームだ。

社会をゲームのように動かしていくことがネオリベだろう。

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