http://jp.techcrunch.com/archives/20090317hypocritical-artists-and-secondary-ticket-sales/trackback/
ここに掲載されている日本語訳の記事はとてもまっとうなことを言っていると思う。
世間でのチケットに関しての奇妙な公正さの主張はとても気分の悪いものだ。違和感を感じる。
時間を割くことのできないファンはファンではないかのような物言いにいつも私は不思議な感覚になる。
もしダフ屋を完全に消し去りたいのなら、すべてのチケットをオークション制で売るがよい。ファンは自らの愛するアーティストへ多額の援助金(笑)を進呈することができる。だが人々は金で愛を測るのか、と問う。逆に問えるのは、時間で愛を測るのか、ということだ。一度市井に流出した商品がどのような経緯をたどろうとも、正直提供者は関心を持たない。ただ同じ商品を手に入れたものが、他人の取得方法に関して関心をもち、論争を行うだけだ。長い時間並んで買ったチケットに愛着をもつのはかまわないが、それと同様の品をあなたが購入したときの値段よりも高く買っただけの人をなじる権利をもつのか?それを斡旋した人をなじれるのか?それは時間をかけないで手に入れた誰かを見ることによって、自らがみじめになっているからではないのか?自らの愛が否定されたようでみじめなのだろう。では、それで減じるようなものを至高のもののようにしたがるのは、それが嘘だと思っているからだろう。
売買の仲介をしているものを不必要に悪く言うこともいい加減にしたほうがいいだろう。仲介人は仲介する際に自分がこうむるリスクの分は最低限確保したいものだ。自らが直接買い付けができたからといって、できなかったものへ分配を行う仲介人を悪くいえるのか?彼らがやりすぎるように見るときもあるが、彼らを破滅させたいのなら買わなければいい。実際それほどのうまみがでるわけではない。水物のような商品を儲けるために大量に購入すれば、潜在的な在庫の山が発生するだけだ。
自分の信条や信心に反するからといって牙をむいて吠え立てるのは、弱者である。むしろ吠え立てるのは、大抵弱者である。しかし本人たちは本来的に勝っていると考えているのに、なぜ牙をむくのか?それが私の違和感なのだと思う。
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