そしてシステムの内にいるときにそれを実感することが可能なのは、それを見ようと努めるときだけである。
自らが属するシステムがシステムの外を見ることを可能にする、しないということは国家でいうならば報道規制の有無がそれにあたる。ただし報道規制がなくても、報道を行う側がそれを見せ続けることを努力することが必要になる。これは不自然な働きなのでこれは努力するしかない。意志して行うほかない。これの時の自分は「自由」であるということもある。
さまざまな流れに逆らっているときに自由である。
また従いながらも、従うことを選択することが自由である。
そして自由であることを自らに任じるならばそれは意志して行うことに他ならないので、責任が発生しないことがない。逆に言うとこれを自らに任じていないのならば、その人には責任はないのだろう。
そもそも予見できないものに責任をもつことは無限の責任を負わせることに繋がるだろう。
もっともこれを言い出すと責任からはたやすく逃れることができるだろう。
しかしこれから逃れることはすなわち意思することを放棄することである。
この放棄を躊躇させるのは、システム外へ落とされることの恐怖でしかない。
システムの外へ落ちることをいとわないものはあらゆる責任からも逃げることを選択しうるのでないだろうか?またシステムの外をよく知るものはそれを選択しうるのではないだろうか?また恐怖を感じなければ、何でもできるのはないだろうか?結局恐怖がないときには躊躇させる強制力がないのではないか?これでいくと、身体的な罰則は根源的に強制力がありそうだ。拷問はそう考えると合理的な責任を負わせる方法なのかもしれない。まぁそれを行う時点でシステムの外の存在の扱いになっていて、責任を負うことによってシステムの中に回帰できるのか?
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