8/02/2009

Emacsから始まる、奥義の道

Emacsのメジャーバージョンアップがきました。
といっても、私はEmacsの信者ではありません。信念的にはViです。(ただでさえCtrlを多用する現状なのに、移動にもCtrlを押し続けなければならないのは苦痛です。といってもEmacsにCtrlでモードを切り替える機能があれば、、、なんて言い出すとViのほうがスマートw)ですが、なんにしてもめでたきこと。UNIXを代表する代表的なエディタがWindowsでしかも日本語環境でも起動するなんて夢みたいな話です。多くの互換プログラムがありましたが、本家が対応してくることによって、これまでとっつきづらいと思っていた人にも選択肢が解放されたと私は思いました。

テキストエディタについては人はその重要性に気づいていません。もっとも、日用品となったアプリケーションに普通の人は選択肢が存在する事を理解できません。ブラウザしかり、メモ帳しかり、OSしかり。この現象をあらわせる適切な用語を知らないのですが、習慣づけによって多様性がなくなっていくこと自体は淘汰で言い表せるのですが、この淘汰が発生していることに気づくことをなんと言い表すのでしょうか。淘汰状態を知覚するというのでしょうか。なんとなく哲学的感性の芽生えと類比して考えられるのですが、何度も言うようにこの感覚をあらわす適切な用語が思いつきません。

ともかくも、この気づきに至る人は一般のレールからは逸脱しました。気づいてしまったことで、その前提が脆弱なものであることに気づくのです。趣味の世界への入り口のようなものですが。。。またややこしいことに、この気づきそのものに気づくと、今あるさまざまなものの前提条件が砂上の楼閣になるのです。まぁ、確かにこれは哲学的な感性でしょう。デカルト的な懐疑とでも言えばいいのか。そうか、淘汰状態への気づきはつまりは前提条件によって選択肢が隠蔽されていることに気づくということで類比的に懐疑か。懐疑というメソッドを手に入れると知るものの大半へその懐疑を差し込めるようになります。前提条件を疑うという新たな手法を手に入れます。もっともこれをどこまで適応するのかという問題は再帰的に発生し、この根となるところの話までいくのならば、デカルトを頼ってその著書を読むべきでしょう。私は、これを手段として使うにとどめます。

この懐疑は、つまるところ前提条件を自ら意志的に組みなおすことを求めます。(哲学で言う意志的ということは人間的ということに言い換えられます、割と)気づいているからには、その前提条件を承認するのか、それとも否定するのかという問いかけが発生します。知ってしまうことによって必然的発生する問題です。またこの懐疑という手法は再帰的であるが故に、どこで再帰をやめて戻ってくるのかを規定する必要もあります。無邪気にすべてを無に還して、世を果敢無むをよし、あくまで手法として選択肢に加えるもよし。

趣味や奥義、追求の端緒は、懐疑だろう。そして満足を求める心は修羅の道。されど楽園にはもはや戻れるわけもなく、ただ東へ。

だから選択肢がなくなっていることに気づくのは、人間的。。。なのかなぁ。少なくともシステムの歯車から外れてしまっている

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