洗濯という行為すら奥が深い。
クリーニング屋という専門職の存在を人々は軽視している。洗濯という日常の作業の専門家ということで大したことがないと思っているのだろう。でももっとも洗濯に精通しているのはクリーニング屋だ。
洗濯は汚れを落とすことが重要である。汚れを落とす。これは簡単なように見えて難しい。たとえば、ワイシャツの汗じみ。地味な例であるが、これほどクリーニング屋の技術の高さを知ることはない。あの黒い線のシミ。洗い上げの洗濯にあの線が残っているときの敗北感を理解いただけるだろうか。別のものでいうと血液のシミ。このシミもただ洗い流すだけでは黄色のまだらが残ってしまう。洗濯後に汚れが落ちていないときの失望は計り知れない。
日常的な洗濯という行為も満足に出来ないことは非常に不満だ。この問題を解決するために私たちに出来るのは、さまざまな洗剤や方法を試して汚れを落とすことである。もう一つは専門家に頼むことである。
いかな主婦主夫といえどもクリーニング屋に匹敵する洗濯テクをもつものはそうはあるまい。掃除も然り、料理も然り。
だから、これが出来る人が好まれることは本来必定であろう。日常におけるささいな行為のそれぞれを正当にやって見せること。これほど本来は賞賛させるべき行為はない。あるべきものがあるべき姿であるということは、それが日常的であるほど、行為の価値に対して反比例して評価されない。
仕事が出来るということはそれによって社会によりよく貢献しているという程度の意味しかない。本来的に全体的なパイの絶対量は変化しない。人々はそれをただ切り分けているだけだ。金銭はそれに付帯する評価と渾然一体の対価である。だからそれが普遍化すれば、評価は落ち、対価として手に入れられる金銭は目減りする。
だからこそ人は常に目新しいものを探していく。しかしここで忘れてはならないのは、評価の下がったそれが不要にならないことである。誰か何らかの形で代替していくものである。日常に溶け込んでいったものの中にもそれは多い。正しい評価ということをいうのであるならば、日常品の有用性やその価値、その意義を何度も語るべきである。それは不当な評価というものだ。しかし評価の本質は不平等だ。AがBより優れているという形でしか評価は成立しない。絶対の基準など一切役に立たない。そんなことを語っても、一向に「等しく」評価されていることにはならない。
もし仮に誰かが正義や等しさを語るなら、語られなくなったものについても語るべきである。語られているもののみで世界は出来ているのではない。AとBの対立軸では単純すぎるのだ。A、Bと変則的な非ABがあるのだ。A、Bにうまくはまらない物事一般という第三領域が。そしてA,Bよりもそれははるかに大きい。
洗濯という行為は、掃除という行為は、尊いのだ。またここで語られない多くの業も尊いのだ。だが遍く尊いということは、何一つ特別なものがなく、どれも尊くないのだ。でもここで注目すべきは、その尊いのだとおもう傾向性だ。これだけが前者と後者を分断する。なにも定点的な考えが全てではない。時系列的な「厚み」を持った判断というものも重要なのだ。
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